月夜の遠吠え
逃げる狐を、狼は山頂で待つ。
月明かりの下で、遠吠えを轟かせながら。
月夜の遠吠え
気がついたら消えている。いつもそうだ。
翼宿は橙色の髪に手を通した。夜の闇を纏いながら一人、溜息を吐く。
乱れた夜具にはすっぽりと穴が空いている。居た筈の狐が、もういない。たった数瞬前まで隣りで寝ていたというのに。
またかと思う。いつもそうだ、これはこの至t山の砦で彼と一晩過ごす度に繰り返されるお約束なのである。
――いつでも逃げられると思って……。
調子づくなや、などとは実際、毎度逃げられている身としては吐きづらい。
なんなんやあいつは、そんなに俺と朝日を拝むのが嫌なんか。
嫌なのだろうな、と翼宿はぼんやりと思う。
現に彼は――井宿は、毎回逃げているのだから。
「次は縛りつけたろか……」
明瞭としていない頭で、物騒なことを考える。
狐を捕まえるには罠を張るしかない。鉄の輪を足に嵌めて、抜け出そうと足掻く様をじっと眺めて――悦に浸る。
――アホか。
大切な人を傷つけて快楽を得る。翼宿にはそんな趣味はない。
二度寝する気にもなれず、のろのろと起き上がる。寝台を這い出て上着を羽織り、窓を開け放った。
差し込む月の光りに眼を細める。
青白い満月。月見酒にはもってこいの、いい月だ。
一杯やるか、と自室に常備してある酒瓶を漁った。適当に選んだものを盃にそそぎ、豪快に飲み干す。
「っはあ……、……あー……」
喉に、胃に染み渡る、辛い酒。空いた心を埋めるどころか、嘲笑うように体内を刺激していく。天に浮かんだ月がざまをみろとでも言うように冷たく笑った――ような、気がした。
あてが外れたような気持ちになって、翼宿はうんざりした。風情も糞もあったものではない。
「馬鹿にしとるんか。お前ら」
存外に辛い酒と冷徹な月に悪態を吐く。
無駄なことだとわかっている。わかっているが吐いた。なんでもいいから吐き出さずにはいられなかった。ようは八つ当たりだ。
相手が人間じゃないだけマシだろうと思いながら、空いた盃に酒をつぐ。
液体の表面を、月明かりがきらきらと照らしている。
綺麗だ、と翼宿は思った。
眼に映る景色、自然物というものはすべて、愛でるべき対象である――と言っていたのは先代だったか。あの人は風流な人だった。空や月や花や木や星を愛でては、酒を仰いでいた。
いつも鷹揚としていて、馬鹿騒ぎとは無縁の人だった。笑い話を振れば乗るが、いつも真顔で冗談を吐くような人だったから、一体どこからどこまでが本気だったのか翼宿にはわからない。
あの人のようになれたら、少しは彼も自分に甘えてくれるだろうか。
そんな夢みたいなことを考える。
「……無理やな。俺は俺にしかなれへんし」
自分のことくらい、いい加減に理解している。もう二十何年も生きているのだし――。
――足りんか……。
年長の人間とばかり接していると、いつまでも自分が子供のように思える。砦にいても実家にいてもそれは変わらない。勿論、井宿と一緒にいても。
時に年下扱いされるのを疎い、時に年下扱いされることに甘える。面倒臭い、と思う。しかも勘定したら、恐らく後者が勝っている。
翼宿は舌を打った。
「アホなんは俺だけかいな」
盃を仰ぎ、床に寝転がる。
窓から覗く空は依然として輝いている。丸い月が、空を点々と埋める星達が、互いを照らすようにその身を強く煌かせていた。
「欲しいもんを欲しい言うて、何が悪いんじゃ……」
夜空を見上げながら呟く。
なんだか馬鹿みたいな気持ちになっている。否――ずっと前からそうだったが。
「俺がいつもどんな想いしとるか、お前わかっとんのか」
それは狐に宛てた言の葉。
いつも素早く逃げては、翼宿を煙に巻く――。
「俺はこんなにしんどいのに、お前は平気なんか。俺をこんな気持ちにさせて」
――やっぱりアホや。
月に向かってぐだぐだ愚痴をこぼすなんて、まだまだ子供である証左だ。まるで話にならない。
しかし、言の葉は止まらない。
「お前、わかってへんやろ。俺がどれだけお前を想っとるか。俺にとってお前がどれだけ大切か」
そうだ。わからないから逃げるのだ。あの狐は、きっと。
――わからへんのか。
わからへんなら――。
「ッ……さっさと戻って来いやこのアホンダラ! わからんならわからせてやるわ、俺はお前が大好きなんじゃボケッ!!」
「ぶふっ!」
――ぶふ?
翼宿は勢い良く上体を起こし、後ろを振り返った。あ、という形に口を開けて、ぱくぱくと開閉する。
そこには、逃げた筈の狐がいた。
「お、おま……っ」
「……すまない。驚かせるつもりはなかったのだが」
嘘を吐け、と言いたいところをぐっと堪える。
というか、いつからそこにいた? まさか今の告白を全て聞いていたのだろうか。だとしたら――。
――死ぬほど恥ずい……ッ!!
「っちゅうか! お前、いつから……いや、どこにおってん! いや! ……なして戻ってきたんや」
混乱した頭を抱えつつ、低い声で問う。
まだ主導権は握られたくない。
「ああ……、気が向いたので?」
「疑問系か。なんやその理由は」
「君を怒らせるつもりはなかったのだ」
そう言いながら、狐は顔に貼り付けていた面を剥ぎ取った。
紅い眼と古い傷跡が露わになる。
「ただ……逃げていれば、それで済むと……そう考えていた。君の気持ちを無視していた。すまなかったのだ」
「おう。……わかったんならええわ」
愚かな独白を一部始終聞いていたらしいと知り、翼宿はならば仕方ないと開き直った。
どうせいつかは耐え切れなくなって明かしていた筈だ。それが早まったところであまり大差はない。
「せやけどな。お前、まだわかってへんことぎょうさんあるやろ」
見つめてこなかったことがたくさん、山ほどある筈だ。
だってお前はいつも逃げていたのだから。
月夜が見下ろす山頂から、この闇夜の中から。
「……一人寝は寂しい、とか?」
「ハッ。そんな甘いもんとちゃうで」
闇の中で抱く耐え難い喪失感。自責の念に支配される心は、最終的に自虐を重ね荒み果てる。
苦しいのだ。
愛しているからこそ。
「言うとくけど、俺は今後死ぬまでお前と離れる気はあらへんし、他に嫁貰う気も全くあらへんからな」
「……それは……」
「お前が嫌がってもそれは貫く。……せやから、いつか離れるかもしれへんなんて考えるな」
わからないのならわからせてやる。
逃げたいのなら捕まえてやる。
――お前の思い通りにはならへん。
いつだって裏切ってやる。お前が望む方向に。
しあわせになれるように。
「俺が責任もって最期まで面倒みるさかい。せやから、もう観念せえや」
それは心からの本心だった。生半可な覚悟で彼に手を出したわけではない。だから――こんなことでくたばるわけにはいかない。
「……敵わないな」
井宿は一瞬驚いたあと、顔を綻ばせて言った。
その笑みに安堵して、軽口を返す。
「フン、俺を誰やと思うてんねん」
「至t山の賊のお頭様、だろう」
「せや。そうで在る限り――俺は俺として、誰よりも強く凛々しくあらんとあかんのや」
答えなら簡単に導き出せる。幾らでも。
翼宿は立ち上がると、井宿と向かい合った。
紅に染まった瞳をじっと見つめる。
「今日はもう帰さへんからな」
掌を井宿の白い頬に添えて、指先で撫でる。
狐は俯いて答えた。
「……覚悟しているのだ」
「おう。それと……」
もう逃げんな。
返事を聞く前に唇を奪った。歯列を割り、舌を入れて口腔を荒らす。逃げられないように背中と首の後ろに手を回し、強く抱きしめながら何度も口づけた。ふ、と井宿が苦しそうに息を吐く。激しい接吻には未だ慣れないらしい。
いいだけ貪ったあと、翼宿は顔を離した。うっすら濡れた井宿の薄い唇を親指の腹で拭う。上気した頬を月明かりが照らし、翼宿は息を呑んだ。
情欲の蝋燭に火が灯る。
再び口づけようと顔を近づけたとき、井宿がぎゅっと翼宿の上着を掴んで制止した。
「翼宿。待つのだ、話がある。オイラは……今日は、逃げるつもりはなかったのだ」
「あ……?」
「本当なのだ。信じて欲しいのだ。今日は……オイラも、自分なりに、一歩踏み出したいと思ったのだ」
井宿はそう言って、手に持っていたらしい瓶を翼宿の眼前に翳した。
これは――。
「……酒?」
「だ。これを取りに行くために部屋を抜け出したのだ。昨夜の宴会で攻児君に貰ったのだが、大広間に忘れてきてしまって……。なかなか寝付けなかったから、君を叩き起こして一緒に飲もうと思ったのだ。……帰る気はなかったのだ、今日は」
翼宿はぽかんとした顔を向けた。
ああと呻いたあと、頭を掻いて赤く染まった顔を逸らす。
「さ、さよか。そらぁ……ええやんけ」
「ああ、」
良いことなのだ。とても。
そう続けて微笑んだ井宿を、愛しさをもって抱き締める。
ありったけの力を込めて包み込み、翼宿は愛の言の葉を告げた。必死に、そして誠実に。
その全てを受け入れるように、狐が頷いた。
眩い光りが室内に降り注ぐ。
煌く月と星たちが、優しく二人を祝福した。
初出:「月夜の遠吠え」20111023
再録、加筆修正:20170418