埋めたい、埋まらない距離




 全てを失くしたあの日から、人と深く関わることを拒絶してきた。
 大学に入学しても友人を作ることはなかった。サークルになど入らなかったし、合コンやゼミコンなどの誘いは全て断ってきた。
 新しく特別なものを、特別な人を作るのが怖くて、ずっと逃げてきた。世話になっている寺の人たちを除けば、井宿はこの六年間誰にも関わらずに生きてきた。
 だが今は違う。朱雀七星士として『朱雀の巫女』を守り、朱雀を召喚した――その過程で、井宿は仲間を得た。七星士としての任を終えた今でも彼らとの親交は続いている。六年振りに得た友人であった。
 そして井宿は今、その内の一人と交際している。七つも年下の高校生で、しかも同性、つまり男だ。井宿とは正反対に派手好きで、交友関係も広い。よく笑い、よく怒り、よく喋り――とにかく明るい。快活で、調子に乗りすぎることもあるけれど、大事なことはちゃんと解っている。そしてでたらめに強い。心も身体も、自分とは比べ物にならない程に。
 そんな彼に影響されたのか、井宿も少し前向きに物事を考えるようになった。もう少し社交的に振舞えないか、自分を守る為だけに他者を不快にさせるような真似は慎むべきだなどと考えていたところ、たまたま大学院の同じゼミの仲間から飲み会に誘われたので、承諾してみた。ゼミ仲間が奇怪な顔をして驚いたので井宿は一瞬怯んだのだが、返事を撤回するのもどうかと思い、参加することにした。
 だが目的の居酒屋について、すぐに後悔した。知らない女性が五人ほど既に席に座っていたからである。てっきりただの飲み会だと思っていたのだが、どうやら合コンだったらしい。人数合わせの為に誘われたのだということは瞬時に理解したが、ここで帰るほど空気の読めない男でもないので、井宿は仕方なく席についた。
 しかし何しろ初めてのことなので勝手が解らない。だから積極的に会話には参加せずに、話しかけられたら答えるだけにしていた。
 そんな井宿の無難な対応にゼミ仲間たちは半分安堵し、半分落胆していた。何故なら、必要以上に喋らないその姿がミステリアスであると興味を持たれたのか、顔が半分ほど前髪で隠れているにも関わらずその端正な容姿がウケたのか――女性陣の注目を井宿が全部掻っ攫っていってしまったからである。
 だが当の井宿はそんなことには全く気づかず、彼女らの質問に律儀に返答し続けた。合コンっていつもこんなに質問責めにあうものなんだろうかと思いながら。
 とにかくその場を乗り切った井宿は、カラオケに行こうと盛り上がる一同を横目で見ながら仲間に帰宅する旨を告げたのだが、その申告は強制的に却下された。今お前が帰ったら女の子も帰っちゃうから絶対最後まで付き合えこん畜生、とゼミ仲間が深刻な顔をして訴えるので、井宿は同行を了承した。せっかく誘ってくれたのだし、思ったよりは楽しめているのでこの先もなんとかなるだろうと考えたのだ。
 カラオケは以前に七星士の仲間たちと行って以来だった。その時は流行の曲を一つも歌えなかったので、仲間に幾つか教えてもらったのだが――まさかそれがこの場で役に立つとは思わなかった。井宿は前に仲間に教えてもらった流行歌を歌い、なんとかカラオケも乗り切った。
「綺麗な声だね」
 歌い終わって席についた途端、隣りに座っていた女の子にそう言われて、井宿は固まった。一瞬何を言われたのか解らず、数秒ぽかんとしていたが、慌てて正気を取り戻し「そうかな」と返した。
 くす、と女の子が笑った。
「顔、赤いよ」
 指摘されて恥ずかしくなって、思わず俯いた。照れ隠しにジュースを啜る。
「ねえ、なんで前髪伸ばしてるの? 邪魔じゃない?」
 不意打ちを喰らって、井宿は思わずジュースを噴き出した。
「えっと、これは……」
 口元を吹きながら思案する。別に知られて困ることなどないけれど――気味悪がれたりしないだろうか。
 井宿は小声で告げた。
「左目、見えてないんだ。だから邪魔ではないよ」
 微妙に答えになっていないなと思いながら、それ以上述べることを止める。女の子は「そうなんだ」と返すだけで詮索はしてこなかった。その代わりに可愛らしい笑顔を向けて、こんなことを言った。
「とても綺麗な眼の色をしているから、隠すの勿体無いなって思ったの。気に障ったらごめんね」
 ――そんな。
 気に障るだなんて、そんな。そんなこと。
 ないと思うんだったらちゃんと伝えた方がいい。頭の中で誰かがそう告げたから、井宿は口を開いた。
「そんなことないよ。……嬉しかった。ありがとう」
 にこっと笑んだ女の子に向けて、井宿も微笑みかけた。
 それだけで、珍しく、なんだか今日はとても良い日だと思えた。



 ――――という話を恋人から聞いて、翼宿の心境は複雑だった。
 とりあえずツッコミを入れたい箇所が沢山あるのだが、ありすぎてどれから突っ込むべきなのかが解らない。話を聞いている間、途中まではツッコミを入れるべき箇所を数えていたのだが、目の前にいる井宿があまりにも嬉しそうに喋るので、話の終わり頃になるとすっかり突っ込む気力を失くしていた。今はツッコミを入れるどころか、頭を抱えて盛大に溜息を吐きたい気分だ。
 流石に翼宿の様子のおかしさに気づいたのか、井宿が慌てて「すまない、俺ばかり喋って」と謝った。
 全く見当違いも良いところである。その微妙にボケてんだか素なんだか解らない言動が、可愛いといえば可愛いのだが。
「いや、そういうんやなくて……。お前、そんなん聞いて俺が……いや……」
 ぶつぶつ言いながら腕を組んだ。
 ――この俺がツッコミきれへんなんて……!
 なんちゅうボケキャラやと半ば感心してしまう。
「そうやなくてな、」
 お前の眼が綺麗なことくらい、俺やって知っとるのに。
 お前の歌声が綺麗なことくらい、俺やって。
「それどころかその女が絶対知らんような顔だって声だって知ってるんやで俺は」
「は?」
 井宿が怪訝な声を発した。
 思ったことを口に出してしまっていたらしい。翼宿はがりがりと頭を掻いて、「なんでもあらへん」とそっぽを向いた。
「……翼宿?」
 不思議そうな顔をして井宿が首を傾げる。その顔を見返して、翼宿は眉を顰めた。どうして翼宿の機嫌が悪いのかまるで解りません、と彼の顔にはっきりと書いてある。
 だからそのボケてんだか素なんだか解らんっちゅうか確実に素やなこいつ、いやだからそういう変に鈍いとことか嫌いやないんやけどって――だから!
 翼宿はぎろりと恋人を睨みつけると、腕を引っ張って彼を抱き締めた。
「翼宿? どうしたんだ」
 どうもこうもないのだが。
 翼宿は井宿の首筋に顔を埋めた。
 井宿に友人が増えるのはいいことだと思う。彼は必要以上に他人と距離を取りたがるから――その所為でいい出会いを潰しているのではないかと前々から思っていた。
 誰にも臆することなく、自然に笑って暮らせるようになったらどんなにいいか。彼の心が豊かになれるのなら翼宿だって協力は惜しまない。
 だけど自分以外の人間のことを、そんなに嬉しそうに語って欲しくない。
 ――なんて改めて言うのもうざいよな……。
 大体そんなん言うたらこいつ、今後一切俺の前で他人の話しなさそうや……。
 流石にそこまで極端なことは望んでいない。
 翼宿は心内で溜息を吐いた。解っていたつもりだったが、井宿と付き合うのは想像以上に難しい。同性であるとか、歳が離れているとかいう以前に――むしろそんなことは翼宿の中ではあまり問題にならない――なんというか、彼は面倒臭いのだ。
 しっかりしていることはしっかりしているのだが妙なところでボケボケだし、常識を持ち合わせていると見せかけて実はそうでもなかったりする。意外に頑固で融通が利かない。普段は人の良さと優しさのオブラートに包まれているから大抵の人間は気づいていないが、井宿は『難しい』人間なのだ。
 告白してからも付き合うまでには時間がかかった。他人を拒絶していた彼の中に入るのは並大抵のことではなかった。それでも気合と根性で彼の心を抉じ開けて、どうにか居座ることができたのだけれど。
 ――別に、解っとるけど。
 どんなに面倒臭くても、難しくても――この気持ちが萎えることはない。
 彼を好きだと思う気持ちがどんな難関も突破してくれる。井宿に拒絶されない限り、その気持ちが、自信が萎えることはない。
 彼の周りには存外に沢山の地雷が埋まっていて、不用意に踏んづけて爆破してしまうこともある。何故天涯孤独なのか、昔何があったのか、未だに彼は話してくれない。
 知らないことは沢山ある。だけど今、井宿は翼宿の腕の中にいる。翼宿の腕の中におさまることを、彼は許容している。
 本当はそれだけでも奇跡的なことなのだ。つい、忘れがちだけれど。
「……なあ、井宿」
 たまに、彼の何もかもを奪いたくなる時がある。相手の気持ちなど考えずに、自分の欲求だけ押し付けたくなる時が。
 未だ埋まらない距離を、自分が知らない彼との遠い距離を、埋めたくて。
 無理矢理にでも――埋めたくて。
「訳解らんねん」
「え……?」
 でも絶対に実行しない。やってしまえば全てが終わると解っているから。
「アホみたいに好きや。お前のこと」
「…………」
 そこで返されるのが沈黙であることに、少しショックを受ける。
 俺も好きだと言って欲しかったのに。
 ――まだ、か。
 いつになったら癒されるのだろう、彼の心の傷は。
 ――俺やったらあかんのやろか。
 俺じゃお前の傷を癒してやることはできへんのか。
 七つも年下の子供には、頼ってくれないのか。
「……翼宿」
 呼ばれて顔を上げる。頬に手が添えられて、優しくキスされた。
 ――……別に。
 そんな誤魔化し方せんでもええのに。
 ずるい大人の一面を垣間見たようで不快だった。だからといってこれ以上拗ねても、彼を困らせるだけだ。
 困らせたくない、辛い想いをさせたくない。笑って欲しくて、それを側で見ていたくて――だから恋人という位置を奪い取って居座った。
 彼の心の安寧を守る為だったら湧き上がる欲求など幾らでも我慢してやる。
 翼宿は井宿の後頭部に手を当てて、キスをし返した。触れるだけのキスではなくて、口腔を犯すような深い深いキスを。
 腕の中で彼が身を捩る。いいだけ貪ったあと、唇を離した。仄かに蒸気している彼の顔を愛しく見つめながら、翼宿はふと笑った。
「なんや、馬鹿馬鹿しいわ。考えても無駄やな。俺、頭悪いし」
 自分に言い聞かせるように言う。
 足掻いても自棄になっても、この距離が縮まるわけではない。きっと、もっと時間が必要なのだ。
「あの……さっきから、話が読めないのだが」
「気にすんなや。大したことあらへん」
 とにかく今、こいつは俺の腕の中におる。それでええやないか。
 そう納得して、翼宿は抱き絞める腕に力を込めた。
 いつまで彼が腕の中に収まっていてくれるかは解らない。だがいつ来るか解らない『いつか』のことを考えて憂えるより、何も考えずに今側にある温もりを味わっていた方がよっぽどいい。
 立ち止まっている暇も傷ついている暇もない。もっと沢山彼を安心させて、幸せを実感させてやらなければ。
 大切な人の幸せは、自分の幸せでもあるのだから。
「あ。せやけどこれだけは言うとくわ」
「何だ……?」
「俺やってお前の眼が綺麗なことくらい、知っとるんやからな」
 ああ、なんだそういうことか――という顔をして井宿が「ああ」と頷いた。
「俺も知っているよ。君がそう思ってくれていることは」
「……は?」
 訳が解らず顔を顰めると、井宿は苦笑を返した。
「君が言ったんじゃないか。ずっと前に、俺の眼が綺麗だって。……そんなことを言われたのは初めてだったから、嬉しかった」
 翼宿はぽかんと恋人を見下ろした。
 ――あ……アホちゃうか、俺。
 自分が言ったことも忘れて、一人で空回って。
 頭をがりがり掻いて一つ溜息を吐いた後、井宿の肩に額を預けて、翼宿は呻いた。
「……嬉しかったんか? ほんまに」
「ああ。……身に余る褒め言葉で恐縮するけど」
「余ってへんわ」
 せやから卑下すんなっちゅうに。お前、自分のこと低く見すぎや。
 聞いてる方まで悲しくなるやんか。
「ほんま綺麗なんやって。お前は、ほんまに……」
 だから解らせるように告げた。解って欲しいと願いながら。
 井宿は返答しなかったけれど、それでも「そんなことはない」と否定されるよりはマシだと思った。
 心の距離はずっと遠くて、伝えたい言葉が本当に井宿に届いているのかどうか翼宿には判断できない。それでも伝え続けるしかないのだ。止めてしまえば、もっと遠くなる。
 これ以上離れたくない。そんな気持ちを込めて再び強く抱き締めた。
 身を預けるように胸に凭れかかってきてくれた井宿が、愛しくて堪らなかった。


 







080204