Whiteday is happy or unhappy?
天井高く聳える、白と青のリボンが巻かれているオブジェを翼宿は呆然と眺めた。てっぺん近くに垂れ下がっている巨大なボードには『HAPPY WHITEDAY』と記してある。
本日、三月十四日は誰が決めたかは知らないがホワイトデーだ。二月十四日のバレンタインデーに貰ったチョコレートのお返しをする日、である。
昔から翼宿にとっては馴染み深い行事だった。何せ彼の家には生物学上、女と分類される生物が母親を含めて六人もいる。毎年、一言も欲しいなどとは言っていないのに――第一、翼宿は子供の頃から甘いものが苦手なのだ――バレンタインにチョコを渡され、当然のようにホワイトデーに三倍返しを要求する姉達は理不尽以外の何ものでもなく、そんな彼女らの存在は翼宿がぐれた原因の一つでもあった。
勿論今年も例外ではなく、ほとんどが経済的に自立している姉達からそれはもうくそ高いチョコレートの数々が上京している翼宿の元へ宅急便で届けられた。嫌がらせにも程があるとうんざりしていると、ルームシェアをしている親友の攻児がけたけた笑いながら「愛されとんなあ、お前」という的外れな感想をほざいたので、翼宿は更に辟易した。攻児は姉達の怖さを知らないからそんなことが言えるのだ。
そんなこともあって、毎年ホワイトデーは翼宿にとって憂鬱な日である。何故、欲しくもないチョコを強制的に渡され、そのお返しをする為に汗水流して働いて稼いだバイト代を注ぎ込まなければならないのか。まったくもって意味不明だ。しかし無視をすれば電話での罵詈雑言が待ち構えている。あの姉達のことだから、弟に文句を言うというのを口実に上京してきて「暫く世話になるから」と言って翼宿の家に居座るかもしれない。そうなると悲惨だ。否、悲惨すぎる。諸手を上げて降参し後生のお願いですから大阪に帰ってくださいと泣きながら土下座するしかない。そうしても帰らないかもしれないが。
何にしろそんな悲惨すぎる未来を防ぐべく、翼宿はとあるデパートのホワイトデー特集売り場に来ている。売り場は何故か女性の比率が高く、次いで男女のカップルが多かったため、居辛くて堪らなかった。
これから姉達の為に散財しなければならないのかと思うと非常に気が重い。だが、今年は救いがあった。先月のバレンタインデーに本命からチョコを貰えたからである。
相手は一応恋人なので、チョコを貰うのは別段おかしくないように思えるが、その相手が同性である場合は別だろう。翼宿自身もまったく期待していなかっただけに、当日にブランデーが香るトリュフチョコを貰った時は本当に嬉しかった。相手は不思議そうな顔をしていたが、苦手なものでもこういうイベントに好きな人から貰ったのだから嬉しいに決まっている。
普段、翼宿が頑張って「好きや」と伝えても、微笑んで流すだけの相手――それで「付き合っている」と言えるかどうかは甚だ疑問ではあるが――からバレンタインデーにチョコレートを貰ったのだ。たとえ気まぐれだったとしても、翼宿にはとても嬉しかった。
前進している気がした。少なくとも、以前よりは。
「あっれー?」
聞き覚えのある声を耳元で確認して、翼宿は反射的に横に逃げた。第一声で声の主をだいたい把握してしまった為、余計に振り向きたくない。
「なぁーにしてんのかなぁー、たっすっきっクン!」
「どちらさんです?」
「なに急性記憶喪失発症してんのよ。こんな美女を忘れるなんて、やあねー脳みそ3キロバイトは」
「誰が脳みそ3キロバイトやねん――っちゅうか、美、女?! 女?!」
うっさいわね、と自称美女が睨み上げる。翼宿はいつ降ってくるか解らない鉄拳から身を守るべく、彼と少し距離を取った。
「この柳宿様に向かっていい度胸してるじゃないの。年上を敬いなさいよ」
「一つしか違わんやろうが」
「学年的には二つ上よ。で、何してんの? まさかホワイトデーの買い物?」
うきうきと尋ねてくる柳宿を見やって、翼宿は小さく溜息を吐いた。
この自称美女は確かに誰がどこからどう見ても美女なのだが、中身は正真正銘の男である。しかも見た目は華奢だが怪力の持ち主で、本気を出せばコンクリートも粉砕してしまうような豪腕のオカマなのだ。
先程から柳宿を見つめる男性の視線をちらほらと感じるが、翼宿に言わせて貰えばまさしくご愁傷様、である。
「まさかって何やねん。俺が買うたら悪いんか」
「だって似合わないからさ。自称・女嫌いが来るところじゃないでしょ」
鋭く痛いところを突かれる。
翼宿は柳宿から視線を離して、商品棚に目を向けた。
「家族用や。返さんとしばかれる」
「へえ、あんた女の兄弟いるの?」
「姉貴が五人」
数秒の間の後、腕を組んだ柳宿が「なるほどねえ」と言って深く頷いた。
「そりゃあグレるわけだわ……」
「遠い目して納得すんな……! 余計悲しくなるわ」
「じゃあ何、あんた家にいるのが嫌で上京してきたわけ?」
「まあそれもあるけど……こっちにきたんは、中学ん時に世話になった人が来てみいっていうたから」
「世話って?」
「喧嘩の後始末とか。昔、やーさんに喧嘩売られてなあ」
柳宿が僅かに眉を顰めた。
「あんた、けっこうデンジャラスな生活を送っていたのね……」
「その気になれば簡単に人殺せたからな。あの頃は能力のコントロールが効かんかったから」
翼宿には幼い頃から特殊な能力があった。それは何の火種も必要とせずに、己の体から炎を発生させることができるという、何かを燃やす以外には何の役にも立たない能力であった。昔は人間チャッカマンだの、ライターいらずだのとよくからかわれた。
その能力は『朱雀の巫女』というものを守る為の力だったのだが、目的を果たし、役目を終えた今、彼の能力は無用の長物となっている。
「殺しちゃったの?」
さらりと問う柳宿の度胸に翼宿は感心した。いや、と答えて棚に並んでいたクッキーの箱を一つ手に取る。
「焼死って死ぬまでに時間かかるねん。せやから殺したことはあらへん」
「そう。良かった」
聞いている翼宿がほっとするような、穏やかな口調だった。彼、もとい彼女のこういう応答にはいつも感心させられる。一つ歳が違うだけで――学年的には二つ上だが――こんなに違うものか。
「で、話戻すけど。じゃあお姉さんたちに五つお返し買わないといけないわけね。あ、お母さんから貰ったなら六つか」
「いや、七つ」
「え? ああ、美朱の分なら今週末みんなでケーキバイキングに行くことになったからいいわよ」
「ちゃう。……ちゅうか何いつの間にそんな話になっとんねん」
「だって美朱が行きたいっていうから。バイキングなら沢山食べられるし、あの子にはピッタリでしょ。……あれあれ〜? じゃあ残りの一つは誰宛なのかしら〜?」
にやりと笑む柳宿から顔を背けて、翼宿は違う棚に移動した。
流石柳宿様というべきか、やはり聞き逃してはくれないらしい。うっかり漏らしてしまった自分も軽率だったが。
「やっぱりあんた、彼女いたのね」
耳に入れた瞬間、吹き出しそうになって翼宿は口元を押さえた。
「やっぱりってなんやねん……!」
「ヤンキーはモテるからねー。あんた男気あるし、派手で目つき悪いけどカッコいいしさ。女嫌いとか言ってやるじゃないの、このこの〜」
人差し指でわき腹をぐりぐり突っつかれて、翼宿は「アホか!」と叫んだ。
ちゅうか相手は女やない――と脳内で返した言葉をそのまま声に出しかけて、慌てて口を噤む。相手は女じゃないどころか、柳宿もよく見知っている人物である。知られては何を言われるか解らない。
「何よー。赤くなっちゃって、嘘吐けない性格って損ねえ。ま、その馬鹿正直さがいいんだろうけど。大丈夫よ、みんなに言い触らすだけだから」
「やめろ絶対やめろお前マジでしばくぞ……!!」
「そうねえ、このデパートにワッフルが美味しいカフェが入ってるんだけど、柳宿そこのアップルシナモンワッフルが食べたいな〜」
――こっ……この感覚はっ……!
似とる……こいつ、姉貴達とテンションが似とる……!
絶望的な事実に気づいて更に絶望的な境地に追いやられる。女というやつはこんなのばっかりなのか、いや待てこいつは女じゃないただのオカマだ、と気づいたところで何の慰めにもならず、翼宿はがっくりと項垂れた。
こういう手合いには素直に従え、と長年の経験が冷酷に告げる。
「……奢らせて頂きます」
「やった! あ、ついでにアールグレイのミルクティーもね」
「解ったから! 何でもええから、絶対に言い触らすんやないで! 言うたらマジで燃やしたるからな!」
「口止め料を貰ったからには言わないわよ。でもなんでそんなに嫌なの? イメージ崩れるから?」
「アホか、そんなんちゃうわ。俺はともかくあいつが」
知られたらきっと嫌がる――。そして「そんな事実はない」としらを切り通して、きっと離れていくに違いない。
自分達の関係がとても脆い状態にあることを翼宿は自覚している。
「あいつ?」
耳聡い女、もといオカマだ。いや、それよりも嘘を吐けなくて馬鹿正直な自分が軽率すぎるのか。
「聞き流せ。ちゅうかほんまに、マジでこれ以上詮索せんといて。頼むから」
「いいけど。あ、あれ美味しそう」
翼宿の袖を引っ張って、柳宿がケーキコーナーに足を運ぶ。この男に有無を言わせぬ行動力が、再び実家にいる姉達を連想させて翼宿はぞっとした。以前から柳宿には時々何か逆らえないものを感じていたが、まさかこういうことだったとは――気づきたくなかった、等と思っていると、当の柳宿から「ねえ」と声をかけられた。
「これなんかいいんじゃない。ホワイトチョコレートケーキ。あの人こういうの好きそうでしょ」
「ああ…………」
――…………ああ?
あの人って――。
翼宿は勢い良く振り向いた。
顔を上げた柳宿がにこっと笑う。
「あたしの勘が当たってるなら、の話。でもね、翼宿。ちょっと真剣に話すけど」
声のトーンを下げて、柳宿は視線をケーキが並ぶ棚に投げた。
「もしそうなら、ほんとみんなには悟られない方がいいわよ。あたしのはシャレで通ってるからギャグにもなるけどさ。本気ならそうはいかないでしょ」
「お前、あれ……シャレなん?」
「ううん、超本気。ま、でもあたしの場合は……そうだなあ、あの方が幸せになってくれれば、それでいいから。その幸せを見守っていきたいの。あの方が嫌がるなら、相手はあたしじゃなくても構わない」
あの方――とは星宿のことだろう。柳宿は使えている主人に惚れているのだ。
「でもあんたは、望んじゃったんでしょ。それ以上」
ぎくりとした。今まで誰にも突かれなかったところを突かれた気がして。
「手に入れなきゃ、気が済まなくなったんでしょ」
その通りだ。
欲しいと思った。この腕の中に収めたいと思った。
そう思ったら。
止まらなくなった。
「突っ走ってる時はリスクなんて感じないと思うけどさ。かなり危ない橋を渡ってるんだって、ちゃんと自覚しときなさいよ。あんたは強いし、これで駄目になったって『青春の思い出』で片付けられるけどさ。向こうは違うんだから」
「駄目になんかさせへん。……ちゅうか、現状は俺が押しまくっとるだけなんやけど」
「え、まだ落としてないの?」
「落とした。最後までやった。でも、……」
心は――遠い。
どんなに体を繋いでも結ばれずにいる。
男だから、女だからというわけではなくて、ただ――彼だから好きなのに。その気持ちさえあればどんな難関も乗り越えられる。だからあまり嫌悪感はなかった。だけど。
――あいつは……。
ふと視線を上げると、顔を赤らめた柳宿と眼が合った。
「あ?」
「っ、あんたねえ……! 信じらんない、行動が早すぎるわよ」
「え? ああ、」
「ていうかそれ、もう全然引き返せないとこにいるってことじゃない。なんだ、もう。心配して損したわ」
「へ? いや、ちゅうか」
「あのね、いくら体格で劣るっていったって、男よ? んでしかも術者よ? 嫌だったらあんたなんか吹っ飛ばされてるわよ。それってさ、あんたを受け入れてる時点で基本的にはオッケーってことじゃない。あんた何悩んでんのよ」
柳宿様は破壊力も凄まじいが断言力も凄まじい。
少々圧倒されながら、翼宿はもごもごと口を開いた。
「いや、あいつ……家族おらんやろ。高校ぐらいまではおったらしいんやけど、なんで一人になったか言わんねん。っちゅうか……俺のこと受け入れとるくせに、独りになりたがるんや。多分――誰かと一緒になるんが怖いんやろうけど」
辛い過去があったのは容易に想像できる。だが詳細を知らなければどれほど辛かったなど想像もできない。知ったところで彼の辛さは理解できないかもしれないが、それでも、慰めるぐらいのことはできる。
「ふうん……そっか。それは難しいわね」
「せやから」
「でもあんた、諦める気ないんでしょ?」
遮られて問われる。柳宿の真っ直ぐな目を見返して、翼宿は「おう」と答えた。
諦める気などない。完璧に拒絶される日がくるまでは。
少なくとも彼は――井宿は、今のところ翼宿を受け入れているのだから。
「なら、悩んでも無駄じゃない? 打ち明けてくれるまで待つしかないわよ」
やはりそれしかないのか。
ホワイトチョコレートケーキの箱を手にし、嘆息する。
待ち続けるなんて一番苦手だ。忍耐力がないわけではないけれど、いつも体が勝手に動いてしまう。
だが意地でも制御しなければならない。彼を傷つけることは、本意とするところではないから。
「……恋愛って難しいなあ」
ぽろっと零してしまった呟きを聞きつけた柳宿が腹を抱えて爆笑しだしたので、翼宿は遠慮なく彼もとい彼女もといオカマの足を蹴りつけた。周囲にいた男の何人かが「何すんだてめえ」的な視線を寄越してきたが、翼宿が鋭く一瞥するとそそくさと散っていった。軟弱な連中だ。
「いったぁーいっ! 何すんのよっ」
「いつまで笑っとんねん! さっさと買って茶ぁして帰るで」
言い捨てて歩き出すと、柳宿が「待ってー、翼宿ちゃんっ」と言いながら腕にしがみ付いてきた。先程散っていった男達があからさまに落胆している。翼宿は彼らに向かって今すぐ柳宿をのしをつけて差し出したい気分になった。
「離れろっちゅうに」
「あら、ただのカップルにしか見えないわよ」
「だから嫌なんじゃ……っ!」
文句を言っても無駄だということは解りきっているのだが、言わないと余計に疲れるので素直に吐き出した。どうせ人の言うことなど聞いちゃいないのだ、この手の奴は――。
「あ、あのフルーツケーキおいしそう! ねえ翼宿、あれ買ってー」
――やっぱりな……。
いつだったか、姉の一人は「それは性格やなくてね、テクニックや。押しの弱い男とかあんたみたいにトラウマ抱えてる男用のね」と笑いながらほざいたものだが、それならば地が傍若無人である方がよっぽどいいと翼宿は思った。計算して男を振り回すなんて、これだから女という奴は。
――いや、ちゃう。
だからお前はオカマやろうが、と公衆の面前で叫んでやろうかと思ったが、それをやってしまうと後が怖いというか軽く半殺しくらいにされそうなので、翼宿は口を閉じた。
こういう手合いには、素直に従った方がいい――と、長年の経験が冷酷かつ非情に、トラウマを抱える少年に告げるのであった。
080314