至t山異聞 攻児伝




 攻めは強硬、忠は()の如く。
 残月に見出され、天日の元に馳せ参ず。
 その名は――。

 




 至t山異聞 攻児伝






 紅南国は首都、栄陽から馬で半日程の距離にその山はあった。
 残虐非道と名高い山賊たちの根城であり、麓に住む街の人々が恐れ目を背ける山――至t山である。
 数年前、この山に居座っていた山賊たちは悪辣な行為を繰り返した。その記憶は今もなお麓の住人達を苦しませている。だが、当代の首領に代替わりして以降、至t山の山賊は劇的に変わった。否、古くからこの地に住む者に言わせると前々代の頃の状態に戻っただけであり、あの山の連中は本来は義侠心に溢れている人間ばかりだという。何処かから流れてきた先の先代が異常だったのだ、とも。
 だがその異常な先代を倒して頭の座を勝ち取った当代の首領も、一筋縄ではいかない男だった。
「暇や……」
 月夜に杯を仰ぎつつ、至t山の首領である魄狼は柳眉を寄せた。
 眉目秀麗かつ頭脳明晰な首領を見やり、正面に座っていた側近が文字通り嫌そうな顔をする。
「この状況で『暇』かよ。負けてるのはお前の方だぞ」
 碁盤に黒い碁石を投じ、側近が――桓旺が次の手を促す。
 魄狼は盤上の碁石を摘みあげると、指先で弾いて桓旺の額に当てた。
「飽きた」
「……よし。解った。殴らせろ」
「サイ、なんやええ暇潰しあらへんかぁ」
 不穏な空気を背負い込んだ側近を華麗に無視して、魄狼は近くで酒を仰いでいた幼馴染に声をかける。
 えー、とサイこと済融は機嫌良く答えた。
「お前が思いつかへんのに俺が何か思いつくわけないやん!」
「ええ笑顔でナイスな返答やな。それもそうや」
「えへへ〜」
「……褒めてねえだろ」
 碁盤を片付けながら桓旺が呆れてツッコミを入れる。
 魄狼は暇と退屈が嫌いだ。だからいつも何かを企てては部下その他を巻き込んで大騒ぎしたがる。そして喧嘩は利息を払ってでも買い、時に激しく売りつける。ハイリスク・ハイリターンが勝負師でもあり快楽主義者でもある魄狼の信条だった。
「そういえば……少し前、麓の連中が『縊鬼(いき)が出よった』とか言うてたな」
 魄狼は思い出したようにそう呟いた。
 桓旺が「いき?」と尋ねる。
「縊鬼。知らんか? 妖怪や。縊死した死者が生きとる人間に取り憑いて、自分と同じく縊死させるっちゅうやつ」
「何それ怖ッ。っちゅうか縊死って何?」
「頸部圧迫による死。つまり絞殺とか首吊りとか」
 何それ怖ッ、と済融が再び悲鳴をあげる。能天気で底抜けに明るい男であるが、妖怪、幽霊の類は不得手であるらしい。
 くらだねえ、と桓旺が悪態を吐く。
「形すらねえものなんか怖がりようがねえだろ。魔物の方がまだ性質が悪い」
「逆や、形すらないから怖いんやろ。お前は相変わらず目に見えんもんを信じへんな」
「お前だってそうだろ」
「何言うてんねん、俺は何だって『在る』と思ってるで? 妖怪やって神様やって」
「そう思っても良いって思ってるだけだろ。信じてはいないだろ」
「せやったら、暴きにいこか?」
 魄狼の返しに、桓旺が「はぁ?」と眉を顰める。
「ほんまに縊鬼が出たんか確かめて来ようや。お前の『目に見えんもの不信』が引っくり返るかもしれんし」
「ええええっ、妖怪探しに行くんか?! 取り憑かれてもうたらどないすんねん?!」
「安心せい、お前らが取り憑かれたら俺が何とかしたる」
「ええええっ、せやったら魄狼が取り憑かれてもうたらどないすんねん?!」
「この俺が妖怪如きに負けるとでも?」
「ああ! なるほど、せやな! なら平気や」
 ボケの応酬――本人達がいたって素なので厄介なことこの上ない――を聞かされて桓旺は頭を抱えた。とりあえずこいつら二人ともぶっ飛ばしたい、話はそれからだと思った矢先――。
 扉を叩く音が室内に木霊した。
「夜分晩くすんません」
 顔を出したのは今日の夜番見張り役だった。
 どこぞの賊でも仕掛けてきたか、と退屈していた魄狼はむしろ歓迎する面持ちで部下に「入れ」と告げた。
 入室してきた部下がぺこりと頭を下げる。
 見たところ、幾つか傷を負っているようだった。
「なんや、どないした」
「いえ、あの……その、それが……」
「はっきり言え」
「は、はいッ! あのっ、通行人を、一人、取り押さえましてっ」
「通行人?」
「はい、あの、山中で通行料取ってた奴らが、連れて来まして……なんでも、何も払わんかった挙句に殴りかかってきよったみたいで。いつまでも暴れ続けるんで、ぶん殴って連れて帰って、牢にぶち込みました。疲れたんか、今は大人しいんですけど……。一応、頭にもご報告をと思いまして」
 一応、は余計だ。あって困る情報というものは何一つない。一つの集団を取り仕切る魄狼には尚更のことである。この山にも情報収集隊を設けている程だ。
 魄狼は夜番の傷を眺めながら尋ねた。
「何人で取り押さえたんや」
「えっ。あ……確か、六人です」
「ほう。なかなか腕がええ奴みたいやな。おもろい、ツラ拝んでくるか」
「えっ!」
 声をあげた夜番はハッとして「いえなんでもありません!」と首を横に振った。
 何を隠しているのか、あるいは誤魔化しているのか知らないが、魄狼にとってはどうでもいいことである。
 全て、徹底的に問答無用で暴けば済む話だ。
「なら行こか。サイ、カン、お前らも来い」
 顔を青く染めた夜番を先頭に歩かせ、魄狼は側近二人を連れて地下牢へと向かった。
 壁の隙間から吹き付ける夜風が冷たい。珍しく冷えるなと魄狼は思った。一年を通じて温暖な気候を保っているこの国は、寒さとは無縁である。
 地下牢に入ると数人の部下が屯っていた。部下達は魄狼達を見つけると慌てて隅に赴き、深々と頭を下げた。
 部下を一瞥し、何人か致傷していることを確認する。捕まえた奴はやはり相当の手だれなのだろう。
「こちらです」
 夜番が若干震えた声で案内する。一番奥の牢だった。
 鉄格子の中にいる人物を見下ろし、魄狼は僅かに眉を顰める。
「こいつにやられたんか」
 部下は一瞬詰まって、それから観念したように「はい」と答えた。
 その無神経さに魄狼は心内で舌を打つ。
 牢の中に入っていたのは、子供だった。
 紺色の髪に、浅黒い肌。両手を後ろで縛られ、深く俯いているから顔はよく見えないが恐らく十を一つか二つ超えたぐらいの歳だろう。ほぼ全身に切り傷や掠り傷、殴打の痕があり、服は上下とも血と泥で汚れていた。
 大の男達が寄って集って餓鬼を懲らしめたのか。
 ――馬鹿が。
 限度というものがあるだろうに。
「餓鬼相手に何しとんねん、お前ら」
 魄狼は鋭く部下を射抜く。
 場は一瞬にして緊張と静寂に支配された。
 早々に雰囲気に耐えられなくなった部下が情けない声をあげる。
「せ、せやって、めちゃくちゃ強いんですよ、この餓鬼」
「阿呆。餓鬼相手に何やられとんねん」
「っ……、す、すんません……」
 苛ついて殴り飛ばしたくなったが、我慢して牢を見やる。鉄格子の中から視線を感じたからだ。
 座っている少年が顔を上げて魄狼を見つめていた。
 魄狼は牢の扉を開け、中に入って少年の眼を黙って見つめ返した。
 なんや、と思った。
 なんや、この餓鬼。
 ――けったいな眼ぇしとって……。
 暗い。どこまでも暗闇が続いていそうな、真っ暗な双眸。まるで顔に穴が二つ空いているようだ。
 ――だが強い。
 そこには何かの意志がある。
 虚無、絶望、諦観。そんなものたちを二つの眼から垂れ流しているくせに。
 不意に、二点の暗闇が上下に動いた。
 いきなり少年が立ち上がった――と思うと、彼の胴と両手を縛っていた筈の縄が地面に解れ落ちた。何処までも暗い双眸を突きつけると、次の瞬間、少年は魄狼の顔面に向かって拳を放った。
「魄狼!」
 済融が声をあげる。
 ぱしん、と乾いた音が響き、魄狼は顔面に当たる前に掌で少年の拳を受け止めた。
 刹那に走った鋭い痛みに眉を顰める。
 魄狼が一瞬止まった隙を突き、少年は脇をすり抜けて牢の外へ出た。
「あっ、コラ!」
「待て!」
 怒声を浴びせる山賊達を無視して、少年は廊下を走り抜け上の階へ上がる階段の方へと逃げた。
 素早く逃げ去る少年の背中を一瞥し、魄狼は彼の拳を受け止めた掌を見返す。中央に小さくじわりと血が滲んでいた。
「っお頭、怪我を……」
「おい。砦内の全ての出入り口と窓を封鎖しろ。あの餓鬼を逃がすな。追い詰めてもかまわんが、武器は使うな。行け」
「は、はいっ!」
 餓鬼一人に梃子摺ったという汚名を雪ぎたい部下達は威勢良く返事をし、少年の後を追った。
 残った側近が魄狼に歩み寄る。
「おい、魄狼。大丈夫か? っちゅうかなして怪我してんねや?」
 済融が頭の掌を覗き込む。
 恐らくこれだ、と答えたのは桓旺だった。割れた陶器の欠片のようなものを持っている。
「そこに落ちていた。血もついている。多分これで縄を切ったあと、指の間に挟んで魄狼に殴りかかったんだ」
 桓旺は説明しながら血のついた鋭角が突き出るように陶器の欠片を人差し指と中指の間に挟み、拳を作った。
 成る程と済融が唸る。 
「顔面に当たっとったらえらいことになっとったなあ。色男が台無しになるところやったで」
「ほんまにな」
 幼馴染の軽口を微笑を以って受け止め、魄狼は掌の血を舐め取った。
「……おもろいな。あの餓鬼」
 何処までも暗い闇のような双眸。一瞬の迷いもなく放った拳。山賊に囲まれながらも全く物怖じしない度胸、屈しない態度と冷静な反応。そして相手の顔面にまったく躊躇なく陶器片を突き刺そうとした非情さ。
「サイ、情報収集隊にあの餓鬼の事を調べさせろ。早急にな」
「了ー解! お前も物好きやなあ」
 済融は笑いながら頭の後ろで手を組み、命令を遂行すべく牢を離れた。
 顔を上げた魄狼はもう一人の側近に目を向けた。
「どう思う?」
「……何が」
「あの餓鬼や。一体どないなったら、あないなけったいなツラになれるんか……お前解るか?」
 さあな、と桓旺は溜息を吐いた。
「尋常じゃねえ体験をしたのは確かだろうが……あんなの、餓鬼がしていいツラじゃねえ」
 嫌悪感を露にする桓旺を横目にし、相変わらず子供に優しい奴だなと魄狼は思った。あの子供をあの様な姿にした――あの様な顔が出来るまで追い込んだ『何か』に対し、彼は憤っているのだろう。
「カン、お前ちょっと見てこいや。あの餓鬼がどれ程なのか」
 どれ程厄介で、どれ程重症なのか。
 ああ、と頷いて桓旺がその場を後にする。
 魄狼は誰も居なくなった地下で一人、空になった牢を見つめ――少年が見せた二つの(まなこ)を思い返した。



 ***



 恐ろしいまでの静寂と深淵。
 まるで天地晦冥の世界に閉じ込められたかのような容貌。 
 餓鬼がしていい顔じゃない、と何度も思う。
 桓旺は警備が厳しくなった砦の中をうろつきながら、檻に入っていた少年のことを考えていた。
 魄狼も言っていたが、一体どうしたらあの様になれるのか。世界に対し、人間に対し、希望も期待も感じていない眼を、桓旺は久々に見た。
 ――あんなの……。
 子供がしていい顔じゃない――否、子供にさせていい顔じゃない。
 一体何が、誰があの子をそこまで追い詰めたのか。周囲に居た大人は何をしていたのだろう。否、もしかして周囲に大人がいなかったのか?
 ――いや……違うな。
 独りだったのなら、孤独だったのなら、きっとああはならない筈だ。
 人は誰かに傷つけられることによって、または誰かを失くすことによって絶望を覚える。どちらも独りでは不可能だ。
「おい! そっちに行ったで!」
 通路に怒声が鳴り響く。
 ふと顔を上げると、先程逃げた少年がこちらに向かって走ってきていた。
 暗い眼と目が合う。
 少年は迷うことなく突進すると足を高く上げて蹴りを入れた――が、桓旺には通じなかった。
 勢いはあるが、所詮十を幾つか超えた子供が放つ蹴りだ。とある拳法の達人でもある桓旺にとっては屁でもなかった。 
 桓旺は少年の蹴りを片腕で防ぐと、足首を掴み引き寄せて体勢を崩し投げ飛ばそうとした。だが少年が素早く身を引いて間合いを取ったので、それは叶わなかった。
 ――こいつ……。
 何故引いた。否、何故引けた(、、、、、、)
 瞬間的に判断しなければ対応出来なかった筈だ。己と相手の力量の差を。
「カンさん、そいつ捕まえて下さいッ!」
 背後から山賊たちが迫ってくる。
 少年は無表情のまま桓旺を睨み付けたあと、上の階へ続く階段を上った。
 ――上……?!
 此処は二階だ。どうして上に昇るんだ、逃げたいのならば下に――と考えて、桓旺はある事に気づいた。
「カンさん! 捕まえて下さいってばあっ」
「……そう簡単にはいかねえな」
「はい?!」
「こりゃあ、体力勝負だ。砦から出られねえ以上、いずれは向こうが根を上げるだろうが……」
 賢い餓鬼もいたもんだな、と桓旺は口の中で呟いた。
「おい、あいつと対戦した奴を集めろ。話が聞きたい」
「えっ、話っすか?」
「ああ。それと……あの餓鬼、捕まえても殺すなよ。他の連中にも言っておけ。魄狼のところに連れてくるまで絶対に危害を与えるな。何かあったら――唯じゃ済まねえぞ、お前ら」
 頭の激怒した顔を想像してしまったのか、部下達はひっと顔を歪めた。
 桓旺は腕を組んで、少年が去っていった階段を見やる。
 何の迷いもなかった。それどころか、何の感情も。
 ――こりゃあ……想像以上に厄介で、重症かもしれねえ。
 僅かでも手の施しようがあればいいのだが。
 少年の前途を憂いながら、子供に甘い男はそう思った。



 ***



 少年が牢を抜け出してから、半刻が過ぎた。
 この山賊達が犇く封鎖された砦の中を、あの子供は未だに逃げ回っているらしい。
 何が彼をそうさせるのか。どうして諦めないのか。
 ――いや……俺でもそうしたか。
 もし同じ立場だったら、彼と同じ年頃で同じ目に遭ったら――魄狼もありとあらゆる手段を使って逃げ回り、脱出を試みた筈だ。
 だがあの少年の場合、魄狼と全く異なる点がある。
 何処までも暗い双眸。永遠に続く二つの闇。何もかもに絶望しきった立ち振る舞い。
 魄狼は包帯を巻いた掌を見下ろした。
 第一、山賊に囲まれ暴行を受けたにも関わらず泣きも喚きもしない時点でおかしいのだ。更に相手が山賊の首領であると理解した上で、あの子供は魄狼を傷つけようとした。
 ――阿呆なんか賢いんか。
 それとも只管に自暴自棄になっているのか。それはそれで正解のような気もするが――。
「魄狼」
 呼びかけられて顔を上げる。自室の扉の近くに桓旺が立っていた。
「カンか。あの餓鬼見てきたか?」
「ああ」
「どうやった?」
 桓旺は室内に入ると、卓に浅く腰掛けた。
「俺も見てきたが、他の奴にも話を聞いた。それで確信を得たんだが……あの餓鬼、人を傷つけることに対して躊躇いがない。迷いなく殴りかかってくる。それに、勝てる奴しか相手にしない。敵わないと思ったら直ぐに逃げる。しかも一番危険の少ない道を選んで逃げてやがる。砦ん中走り回って、ある程度間取りと人員の配置を覚えたんだろう」
 上の階に逃げたのは、そこは警備が薄いと知っていたからだ。直ぐに表に出られなくても逃げ回っていればいつか機会が訪れるかもしれないと思ったのだろう。
「あの餓鬼、相当頭が切れるぞ」
 並大抵の判断力、記憶力ではない。常に冷静さを欠くことなく、度胸もある。十を幾つか過ぎただけの子供だとはとても思えない。
「そら、ますますおもろいな」
 魄狼はくっと笑った。
 もしかしてとんでもない逸材が転がり込んできたのではないだろうか。事の次第によっては山賊に勧誘するのも悪くない。あの子供にその気があるのなら、育ててみるのも面白いかもしれない。
 後の人材育成の為にも良い教材になるかもしれない等と思っていた時、不意に不穏な気配を察知した。
 何事かと顔を向けると、扉の前に済融が立っていた。
 珍しく仏頂面で、珍しく――憤慨している。
「サイ。どないした」
 尋ねると、済融は室内に入り空いていた椅子にどかっと座り込んだ。俯き加減で不貞腐れたように声を絞り出す。
「……あいつのこと知っとる奴がおって、聞いたんや。あの餓鬼のこと」
 済融は両手で頭を抱え、数秒黙り込んだあと「くそッ!」と呟いた。
「もう、なんやねんな……最悪や。ふざけるんやないでマジで、なして――なしてこう、神様っておらんのかいな……っ!」
「なんや、どないしたんや」
 話せ、と言外に伝える。
 済融は歯を食い縛ると、苦しそうに言葉を選び、吐き出して、少年の過去を語った。
 何処までも暗い双眸を得ることになった、その理由を。



 ***



「っやねん、あの餓鬼……っ!」
 大広間へと続く狭い通路で、山賊達は少年と対峙していた。
 追い駆け回って半刻が過ぎた。流石に少年も疲労の色が激しい。肩で息をしながら、こちらの様子を伺っている。
「いつまでもすばしっこい奴や……せめて挟み撃ちに出来れば」
「いや、さっき挟んだけど逃げられた」
「はぁ?! 何してんねん!」
「せやかてあの餓鬼、尋常やないんやて! 金玉グーパンで一人死にかけてんねんぞ!」
「何やそれ怖ッ!」
 なんという容赦のない子供だ。
 餓鬼やからって何やってもええと思ったら大間違いやで、と思いながら懐に手を入れる。
「埒が明かん。これ以上時間かかったら、頭にぶっ飛ばされるだけや……」
「おい、何するつもりや」
「こうするんじゃ……!」
 懐から取り出した短剣を握り、素早く鞘を投げ捨てて男は少年に突進する。
「っおい! 待て馬鹿、武器は使うなって頭が……!」
 やかましいと叫び返して男は少年に刃を突き立てた。
 きらりと光った切っ先を見つめ、少年は僅かに眉を寄せた。



 ***



 縊鬼が出よったんよ。
 可哀想になあ。
 あんな惨い事が、ここらで起こるなんて……。
 ああ、あれは縊鬼や。縊鬼やで。
 あの子は取り憑かれて死んでもうたんや。
 きっとそうや……。

 ――そりゃそうや。
 妖怪の仕業であった方がよっぽどマシだ。
 魄狼は麓の住人が漏らした言葉を思い出しながら廊下を歩いていた。後ろには側近二人が続いている。
 少年の過去を、事情を全て聞いた。だからこうして歩いている。少年と相対する為に。
 久々に胸糞が悪い。
 少年がどうのというわけではない。先刻まで「縊鬼退治をする」等とほざいていた己が腹立たしいのだ。
 何も知らないで、一体何と戦うつもりだったのか。
 そしてあの子供は――今、一体何と戦っているのだろう。
 過去と? それとも自分自身と?
 ――毀れたいんか。
 それとももう毀れているのだろうか。
 何処までも続くあの暗闇から、這い出る方法はないのか。
 救い上げる方法は。
「なあ、カン」
「なんだ」
「神っておると思うか」
 太一君、天帝の存在の有無。眼前に現れでもしない限り、否、例え現れたとしても、その存在を信じるか信じないかは個々人が決めることだ。
 桓旺はつまらなさそうに答えた。
「さあな。いる奴にはいるんだろうし、いない奴にはいないんだろうよ」
「あの餓鬼には」
「……いたらああはなってねえだろ」
「俺もそう思う。せやから――」
 騒ぎ声が耳に飛び込む。あれは大広間へと続く通路――。
 魄狼は少年の過去を知った時にした決意を口にした。
「俺があの餓鬼の神になったる」
 青い顔をした貧相な体躯が目に入る。薄汚れた子供の直ぐ側には、短剣を持った部下が立っていた。
 黒い穴が魄狼を見る。
「お、お頭」
 頭領の姿を確認した部下が一瞬、動きを止めた。
 その隙を突き、少年が短剣を持つ腕に抱きついて部下の手首を噛んだ。声にならない悲鳴を上げて部下がその手から短剣を落とす。
 少年は床に転がった刃物を素早く拾い上げ、構えると魄狼に向かってきた。無言で迫り来る黒い穴を受け止め、魄狼は刃を突き出した少年の腕に手刀を当てた。呆気なく少年の手から短剣が零れ落ちる。
「今のは無謀やったな。死にたかったんか?」
 逃げられないように両腕を掴み、押さえつける。
 少年は真顔のままゆっくりと魄狼を見上げた。何も映し出さない瞳に、何も感じさせない無表情。終始変わらない態度であったが、若干憔悴しているように見えた。
 ――無茶しよって。
 もう、疲れたやろうに。
「餓鬼。これだけは言うておく」
 疲れた顔をした少年の頭に手を置き、魄狼はぐしゃっと撫でた。
「お前の妹が死んだんは、お前の所為やない」
 少年が目を瞠る。
 僅かな震えが魄狼の手に伝わってきた。
「お前の親父がカスなのも、お前の所為やない。そのカスを恨みきれんのも――みんな、お前の所為やないんやで」
 お前は何も悪ない、と続けて魄狼は少年に微笑みかける。
 そして少年を讃えた。
 心の底から、彼の――生き様を。
「今までごっついしんどかったやろ。よう頑張ったなあ」 
 初めて少年の顔がぐにゃりと歪んだ。
 何処までも暗い双眸が徐々に本来の色を取り戻す。
 それは透明な光りを伴い――
「せやから――今は、泣いとけや」
 魄狼の言葉と共に、爆発した。
 あ、ああ。うああああああっ――!
 零れ落ちる涙と、溢れ出る嗚咽。
 少年を引き寄せ、慟哭する彼の身体を包み込む。
 至t山の頭の腕の中で、少年は力尽きるまで泣き続けた。



 ***



 物心ついた頃から母親はいなかった。
 気づいたら少年は父親と妹と三人で暮らしていた。
 父親はいつも家にいた。家といっても家畜小屋に毛が生えたような襤褸家だ。近所との付き合いもなく、村の人間からは常に隔離、疎外されていた。
 父親は家にいても何もせず、いつも唯呆けていた。偶に機嫌が悪くなると凄く怒って、家の中にある物を破壊し尽くし、少年や妹に手をあげた。だから子供達はいつも傷だらけだった。
 少年は別段、それが不幸なことだとは思っていなかった。
 だから父親を恨んだこともなかった。
 父親の望むように従っていれば、いつかは報われる。いつかは他の家族のように他愛ない話をしながら笑い合える日が来ると思い込んでいた。何故かは解らない。でも頑なにそう思い込んでいた。
 近所の人はみんな父親のことを悪く言っていたけれど、どうにかしようと言い出す人は一人もいなかった。恐らく誰に対しても凶暴な父親が怖かったのだろう。
 そんな父親の元で、少年は働きながら妹と一緒に暮らしていた。働くといっても村の中では小間使いぐらいしかさせてもらえなかったので、いつも喰うに困っていた。あまりに喰えないから、遠くの村に出かけ作物を盗んでくることもあった。
 妹は一つ年下で名を(すず)という。鈴で遊ぶのが好きだったから、少年がそう名づけた。
 鈴は人懐っこい子で、笑うと愛らしかった。兄である少年を頼り、信頼していた。
 少年は、鈴の為なら何でも出来た。汚いとか貧乏とか言って鈴を苛める連中を端から殴り飛ばしたりした。銭が貰えるならと、汚い仕事でも何でもした。鈴を守るのがいつからか少年の生きがいになっていた。
 だけど――。

 あの日。

 あの日は――父親の機嫌が最高に悪かった。
 どうしてかは解らない。父親はいつも唐突に怒った。唐突に怒って、唐突に少年を殴った。
 あの日も少年は沢山殴られて、物置で倒れた。
 全身が痛くて起き上がれなかった。
 頭が、腕が、腹が、足が、熱い。
 滲み零れた血が床を汚していくのを呆然と眺めた。
 ああ、また掃除か。面倒臭い。せやけど汚れとったら、おとん怒るやろうし……ああ、頭が痛い、熱い。眠い……。
 段々と意識が遠退いていく中――扉一枚挟んだ居間の方から悲鳴が聞こえてきた。
 鈴の声や。鈴も殴られとるんやろうか。
 そう思って僅かに首を曲げ、物置の扉の隙間から居間を覗き見た。
 父親が鈴に覆い被さっていた。
 鈴は首を激しく振り、泣きながら嫌がっていた。
 鈴の服が脱がされていくのを、少年はぼうっと見ていた。
 頭が痛くて、熱くて、動けなかった。血がどくどく流れる音が耳ん中に響いた。
 鈴が一瞬、こっちを向いた。
 目が合った――気がした。
 痛い。熱い。眠い。
 そして少年は意識を失った。

 何刻か後、目が覚めた。
 家の中はやけに静かだった。話し声どころか、いつも外から聞こえてくる風の音も、鳥の鳴き声も聞こえてこなかった。
 眠って少しは回復したのか、少年は立ち上がれるようになった。ふと鈴のことが気になって、少しだけ開いていた居間の扉を開け放った。
 視界が遮られる。
 天井から二本の白い棒が垂れ下がっていた。
 所々、赤黒く汚れている。
 何やこれは。
 そう思って天井を見上げた。
 そこには、鈴がいた。
 鈴が首を吊って天井からぶら下がっていた。
 す、ず。 
 あ、あ、と何度か小さく呟いて、尻餅をついた。
 鈴が。鈴が首を。天井から。垂れ下がって。
 意味が解らなくて、暫く垂れ下がった鈴を見つめた。破れた服から覗く肢体は痣だらけだった。何かを訴えるように見開いた目と、口端から流れていた赤黒い血を見て、少年は青ざめた。
 死んどる。
 そう思った。
 死んどる。鈴が。首を吊って。どうして。
 なんでや、と思った。
 おとんに酷いことされたからか。せやから死んだのか?
 あの程度で(、、、、、、)
 少年は――犯されたくらいで妹が死を選らぶなんて、思ってもいなかった。
 殺されそうになっているわけでもない。嬲られているといっても、いつも殴られているのだから平気だろう。陵辱されるのも殴打されるのも一緒だ、感じる痛みに大きな差なんてない――と少年は思っていた。
 それなのに何故。
 そんなに辛かったのか。そんなにしんどかったのか。
 自分の認識が甘かったのか。
 嬲られるというのは、殴られるより辛いのか。
 ああ、と少年は思い出した。
 あの時、鈴と目が合った。気がする。否、多分合った。合って――鈴は助けを求めた。
 お兄ちゃん、助けて。
 僅かに開いた鈴の口が、そう動いた。
 だが少年は目を閉じた。大したことじゃない、自分も動ける体じゃないからと、そのまま意識を手放した。
 鈴を――助けなかった。
 元より自分は父親には決して逆らえないのだ。今までもそうだった。少年は乱暴で冷酷無比な父親にずっと唯々諾々と従い続けてきた。従順であればいつかは報われると頑なに、愚かに信じていたからだ。だからいつも殴られても抵抗しなかったし、妹を殴る父親を止められもしなかった。あえて自分に注意を引かせ、妹の代わりに殴られたことは幾度もあったが――。
「ああ」
 解った。
 目が合った鈴は、唯一の頼みの綱であった兄に助けを求めたのに、無視されて、絶望したのだ。
 ――鈴は。
 鈴はきっと、おれに見捨てられたと思うて、絶望して死んだんや。
 ――おれの所為で。
「ああああ」
 あの時、頭も身体も痛くて動けなかった。それは確かに事実だ。
 だけど。
 ――おれの所為で。
「ああああああ」
 頑張ったら起き上がれたかもしれない。気力を振り絞れば、助けられたかもしれない。
 事の重大さに気づいていたら――それが酷い行為なのだと解ってあげられていたら。父親が相手だからと諦めていなければ――そうだ、相手が父親でなければ迷わず助けたに決まっているのに――!
 ――おれの所為で。
「ああああ――!!」
 喧しい、と誰かが叫んだ。
 振り向くと父親が突っ立っていた。
 父親は天井からぶら下がっている鈴を見て、嫌そうに顔を歪めた。そして面倒そうに少年を見やり、処分せえと吐き捨てた。
 その時、少年の中で何かが切れた。
 少年は立ち上がると物置から鎌を持ち出し、父親に向かって構えた。自分でもわけのわからないことを喚いて、少年は父親に突進した。
 殺す。殺してやる。そう思って振り上げた鎌は、父親に届く前に呆気なく振り払われた。
 父親も怒ったのか、わけのわからないことを喚いて鎌を奪い、少年の顔に突き立てた。刃が滑って、頬が割れる。血が滲んで溢れ出す。
 痛い、痛い。
 父親は馬鹿にしたように少年を見下した。
 そして少年の首を絞めた。
 父親はにやりと笑った。酷く、醜い顔だった。
 それからのことはよく覚えていない。
 抵抗した気もするし、しなかった気もする。無茶苦茶に殴られ、蹴り飛ばされて、少年は意識を失った。
 死ぬんやと思った。
 ああ、おれは死ぬ。鈴の所に行く。
 向こうで会うたら、鈴はおれのことを許してくれるやろうか。妹一人守れん、情けへん兄貴を。あの幼くて優しかった子は、許してくれるやろうか。
 許してくれへんとも構わん。せやけど謝らせてくれ。
 ごめん。ごめんな、鈴。駄目な兄ちゃんで――ごめんな。
 お前を見捨てるつもりなんてぜんぜんなかったんや。ただ、あんなんで死ぬなんて――思わなくて。死ぬほど苦しかったなんて、思わなくて。親父に歯向かう勇気も、なくて。
 ごめん、ごめんと繰り返した。
 繰り返して、繰り返して――夢の中でも繰り返して、目が覚めた。

 少年は、生きていた。

 否。
 少年は――死ねなかった。
 意識が戻った後に聞かされた話だが、どうやら騒ぎを聞きつけた――大声で怒鳴り合っていたから近所に漏れていたのだろう――村の人が家の中で倒れている少年を見つけ、介抱したらしい。父親は、村人が覗いた時には既にいなかったという。
 瀕死状態で意識を失っている少年と首を括った少女を発見した村人は大層驚いて、医者を呼び役場へ報告に向かった。
 目覚めた少年は役人の事情聴取を受け、覚束ない頭で返答した。尋ねられるままに淡々と事実だけを述べると、年老いた役人は「なんとしても父親を捕まえてみせる」と息巻いた。入れ違いに入ってきた村の人々も「もっと早く首を突っ込むべきだった」、「見捨てるような真似をしてすまない」等と涙を流し頭を下げた。
 少年は悲嘆に暮れる大人たちをぼうっと眺めた。
 義憤も同情も謝罪も、少年にとってはどうでもいいことだった。他人の気持ちを酌んでやる余裕などなかった。受け入れてやろうだなんて思いもしなかった。
 段々と頭の中の靄が晴れてきた頃、少年は妹の名を口にした。
 鈴はどうしたのか。あの子はまだ――まだ、天井からぶら下がっているのか。
 ――降ろしてやらないと。
 降ろしてやらないと!
 気づいたら床の上で叫んでいた。
 宥めるように村人が「もう降ろしたから安心しなさい」と言った。「まだ墓は作っていないが、家に寝かせてある。お前も最期の別れがしたいだろう」と。
 ――最期の別れ。
 現実味のない響きだった。
 大体、あれは現実だったのか。本当に妹は首を吊ったのか。本当に父親は消えてしまったのか。本当に――。
 ちり、と頬が痛んだ。震える手でそこに触れる。
 ざらりとした感触。顔を縦一文字に走る線。鎌で切られた――。
 全身を痛めつけられ寝返りも打てない状態で、少年は天井を見上げた。
 不思議と涙は出てこなかった。
 悲しいとか、辛いとか、そんな感情はとうに朽ち果ててしまった。あえて言うなら空しかった。色んなものを失くした気がした。否――全てだ。生きていくに必要なもの、その全てを少年は失くした。大切な人、生きがい、働く理由、生きる理由、憎むべき――しかし何故かどうしても憎みきれぬ――血の繋がった親だから?――相手。
 残ったものは傷だらけの身体と、空っぽな心だけ。
 どうでもいい、と少年は思った。
 どうでもいい。そんなものはどうでもいいんだ。
 おれなんか世界で一番どうでもええ。
 鈴を助けられんかった。それどころか死に追いやった。親父を殺せへんかった。――自分さえも。
 次の日の夜、少年は無理やり起き上がり、足を引きずりながら歩いて家へと向かった。
 血で汚れた居間に、鈴が横たわっていた。全身にかけられていた布を剥ぎ取る。微かに腐臭が鼻を掠めた。首に巻きついていた縄は消えていた。
 目が閉じられた妹の顔をじっくり眺め、少年は震えて「ごめんな」と言った。
 未だに頭の中は完全に晴れていなかった。だから明瞭とした意思というものはなかった。ただ、鈴の埋葬だけは自分の手でしたかった。誰にも触れさせたくなかった。
 少年は妹の遺体を家の裏手にある川まで引きずり、身体を洗った。父親の痕跡が残っていたら鈴は嫌だろうと思ったからだ。微動だにしない身体はとても冷たくて、肋骨が浮き出ているくらい細いのに、重たかった。
 汚れた身体を綺麗にして、鈴の身体を布で包んだ。
 鈴を背負い、少年は山林へと歩き出した。まだ歩けるような身体ではない。だから何度も転んだ。その度に起き上がって、少年は見晴らしの良い丘まで歩いた。
 小さい頃から鈴と何度も遊びにきた場所。鈴が一番好きだと言った場所だった。
 少年は手で土を掘り、鈴を其処に埋めた。ごめんな、ごめんなと何度も何度も繰り返しながら。
 埋葬後、石を重ねて墓石とした。
 そして少年はその場に倒れた。
 このまま死ねたら良い。鈴は死んだ。父親も消えた。もう誰も居ない。何もない、生きる意味も何も。

 だが、やはりというべきなのか――少年は死ねなかった。
 不幸な――少年にはよく解らない表現であるが――子供に対し、村人達は過保護だった。墓の前で倒れている少年を発見し、また医者の下へ運んで看病した。
 可哀想に。すまなかった。俺達がもっとよく見ておったら。もっと早く助けてやれとったら。
 怪我が完治するまで二ヶ月の間、少年は病床で常にそんな言葉を聞いた。しかしやはり少年にとってはどうでもいいことだった。村人達には何の感慨も沸かなかった。感謝も憎悪もなかった。ただ相手をするのが面倒だったから只管に黙った。可哀想に、心が毀れてしまったんかと誰かが言った。毀れてくれた方がよっぽど楽だと少年は思った。
 ある時、一人の村人がこんなことを言った。
 縊鬼や。縊鬼が出よったんや、みんな縊鬼の所為や――。
 少年はそこで初めて口を開いた。そして尋ねた。縊鬼とは何か、と。
 村人は答えた。
 縊鬼っちゅうんは妖怪や。首吊って死んだ人間が、生きとる人間に取り憑いて自分と同じ死に方をさせるんや。お前の妹は縊鬼に取り憑かれてしもうたんや。きっとそうなんや……。
 少年を慰めようとした故の発言だったのだろう。
 だが少年には全く意味が解らなかった。否、納得出来なかった。
 取り憑かれていたというならば妹は例え何も起こらなくても死ぬ運命(さだめ)にあったということではないか。
 そんな訳があるか。例え本当にそうだったのだとしても、そんな話は何の慰めにもならない。
 あの子は苦しい想いをして死んだ。美味しいものを鱈腹食べることもなく、綺麗な服に袖を通すこともなく、友達もなく、母親も知らず、父親に殴られ、嬲られて、兄に見捨てられたと思い込み絶命したのだ。恐らく短い人生の中、幸福を感じることもないまま、絶望だけを身体に刻んで――。
 それを妖怪の所為にするだと?
 馬鹿馬鹿しい。そんな風に思えるのだったら最初からそうしている。母親がいないのも父親が暴力的なのも金がないのも飯がないのも村の連中が誰も助けてくれないのも友達がいないのもみんなみんな妖怪の所為だと、思えるなら最初からそう思っている。
 ――そんなん、無理や。
 だからこんなに苦しんできたんじゃないか。
 否、妖怪の所為にした所で母親がいないのも父親が暴力的なのも金がないのも飯がないのも村の連中が誰も助けてくれないのも友達がいないのも唯の事実だ。妖怪だなんて、そんなことで気など晴れるか、眼前に在る現実から逃れることなど出来るものか……!
 ――アホちゃうか……っ!
 妖怪の所為にして、都合が良いのは村人達(おまえたち)じゃないか!
 少年には何の助けにも、気休めにもならない。妹は死んだ。もう二度と戻らない。二度と。
 情けなくて唇を噛んだ。誰にもこの気持ちは解らないと思った。解って欲しくもなかった。
 完治した少年は誰にも何も告げずに医者を飛び出した。
 村から離れて山へと向かった。それから荒れる日々が始まった。
 相手が大人でも子供でも構わない。因縁をつけてきたら、その場で叩きのめす。敵わないなら逃げる。そしてまた闘う――。
 少年は死にたかった。だけど死ねなかった。自ら死ぬという選択肢が、何故か抜け落ちていた。その理由に少年は気づいていた。
 父親が消えたからだ。
 二ヶ月の間、父親は消えたままだった。村に戻ってきたという話は誰からも聞かなかった。役人が捕まえたという話もなかった。父親は現在進行形で行方不明なのだ。生死すら解らない。
 少年は、こんな状況で――この期に及んで、もしかしたら奇跡が起こるかもしれない、とほんの少しだけ思っていたのだ。
 もしかしたら、いつか父親が真人間になって帰ってくるかもしれない。
 そうしたら今度こそ、暖かい親子関係が築けるかもしれない、と。
 自分でも馬鹿だと思う。そうだ、一番愚かなのは少年自身だ。救いようのない大馬鹿野郎だ。妹を助けられず自殺に追い込み、未だ父親が振り向いてくれることを期待している。もっともっと良い子になったら、あるいは――と。
 馬鹿なのだ。愚かにも程がある。だが少年は死ねなかった。可能性にも満たない小さな希望、否、願望を、少年は捨て去ることができなかったのだ。
 しかし村に戻り妹が死んだ家で父親を待つことも、少年には出来なかった。
 己の願望とは別に、少年は妹を守りきれず死に追いやったことをとても悔いていた。とてつもなく罪悪感を抱えていた。だから自分は死ぬべきなのだとも思っていた。死んで詫びるべきなのだと。
 だから少年は生きながらえて、かつ死ぬかもしれない道を選んだ。それが荒くれ者どもが売ってきた喧嘩を買うことだった。
 沢山殴られて、なるべく苦しく死ねたら、少しは死んだ妹に顔向けが出来る。それで妹が満足するかどうか、解らないけれど。

 そんな生活を続けていた時、山賊にはち合った。
 通行料を寄越せと山賊は言った。そんなものはないと答えて、少年は暴れた。応援が来て捕まって、牢に入れられた。脱獄し、逃げ回り、再び捕まって――少年は出会った。

 神――と。

 悪くないと言われたことが嬉しかったんじゃない。
 唯、認められたことが嬉しかった。
 今までしんどかったのだと、今まで頑張ってきたのだと――だから、今は、泣いていいのだと。
 その時、少年は生まれて初めて泣いた。今までどんなことがあっても泣くことはできなかった。父親にも妹にもそんな姿は見せられなかった。否、見せたくなかった。
 ずっと我慢してきたものが溢れ出た時、それは止まらない洪水となって少年の顔を覆った。
 悲しかった。辛かった、やりきれなかった。苦しかった。今まで生きてきた十二年間、ずっと。そう、誰にも言えなかったけれど、ずっと――苦しかったのだ。いつだって叫びだしたかった。「もうやめて」と言いたかった。「助けて」と言いたかった――。
 泣き疲れた少年は神の腕の中で眠った。  
 その暖かさを、力を、器を、存分に味わいながら。
 


 ***


 
 とんとん、と指で卓を叩く。
 煙管を咥えるように細筆の持ち手を咥え、魄狼は思案していた。
 幾つも案を浮かべては消してゆく。一番最初に思い浮かべた案を凌ぐものがなかなか出て来ない。
 やはり此れでいくか、と魄狼は卓上に置いてあった本の裏表紙に文字を認めた。
 背後にいた済融が覗き込んで問う。
「何や、それ」
「んー……傑作。俺の作品第一号」
 特にツッコミを入れる気もないらしく、済融はふうんと返事をするだけだった。
「衝撃的やろ?」
「うん? え? せやから、それって何」
「魄狼」
 部屋の扉を叩いた後、桓旺が室内に顔を出した。連れて来たぞ、と続けて後ろに控えていた人物を室内に入れる。
 昨晩、砦内で暴れ回った子供だった。
「ああ、起きたんか」
 びくっと少年が顔を上げる。
 昨日とは打って変わって大人しく、どこかおどおどとしていた。
 ――何や。
 餓鬼らしいツラも出来るんやないか。
「まあそう怯えんと。あ、後ろのでっかいオッサンに何かされたんか? すまんな、そいつ子供好きなんや」
「何もしてねえよ! そんでもって誤解されるような言い回しをするんじゃねえ……!」
 間髪を容れず入ったツッコミを受け流し、魄狼は少年を見下ろした。
「紹介が遅れたな。俺はこの至t山に住まう山賊を取り仕切っとる、魄狼っちゅうもんや。俺の後ろにおるのが済融、お前の後ろにおるでっかいのが桓旺っちゅう奴で、俺がこの山で一番信用しとる人間や。今の、他の幹部には内緒な」
 魄狼は悪戯っぽく笑った。他の幹部も信用していないわけではないが、側近二人と比べるとその間には大きな溝がある。
「もう解っとると思うが、お前の事情は粗方聞いとる。他に行く所が――行きたい所がないんやったら、此処におればええ。お前にその気があるなら俺は全力でお前を支援したる。……散々泣いて、少しはすっきりしたやろ」
 少年は答えずに俯いた。
 恐らく彼はまだとても悲しんでいるし、辛いし、苦しんでいるのだろう。
 己を許せず、新しい道を切り開くことを躊躇している。
 新しい世界を手にするのを。
「……成る程な。その方向やったらあかんか――。ところでお前、名前は?」
 再び顔を上げた少年が眉を顰めた。
「お前の名前や。なんてゆうんや?」
「……あらへん」 
 少年の答えに側近達がぎょっとした顔を見せた。
 魄狼も少々驚いて少年を見やる。
「ないんか? ……親父になんて呼ばれとった?」
「……『おい』とか、『お前』とか」
 少年には固有名詞がなかった。生まれてから今までずっと、親にも大人にも誰にも名前というものを与えられたことがなかった。村人達は『襤褸屋の倅』と呼び、妹は『お兄ちゃん』と呼んだので少年に名前は要らなかった。名乗る機会もなかったので、少年自身もその必要性を感じていなかった。
 そうか、と答えて魄狼は卓上の本を手に取った。
「なら調度ええ。――そら」
 手にした本を投げ渡す。
 少年は両手でそれを受け取った。
「それが今日からお前の名前や」
 魄狼の言葉に少年は目を瞠った。
 紅い裏表紙に記された力強い文字をじっと見詰める。
 ――攻児――。
「攻める児童(こども)と書いて『攻児』や」
「成る程! って、そのまんまやん!」
 合いの手を入れるように済融が突っ込む。その名はまさしく、昨日この砦で暴れまわった少年の姿そのものだ。 
 食い入るように文字を見詰める少年を見下ろし、魄狼は不敵に笑んだ。
「ええ名前やろ?」
 少年はぽかんとした顔を差し出して――次の瞬間、あははははっと声をあげて笑い出した。
 声高に、そして愉快気に。
 呆然とその姿を眺める大人達を見やり、一通り笑い終えた少年は――否。
 攻児は、言った。

「おおきに」
 


 後に彼は至t山の頭の片腕としてこの地を飛翼することになる。
 神が認め、己が頭を垂れた――太陽の下で。
 















 
 END






 後日談「一周忌」






















 110119